vol.2 せつな【刹那】
広辞苑第6版1578頁
[仏]極めて短い時間。一説に、一弾指(指ではじく短い時間)の間に六五刹那あるという。一瞬間。⇔劫
今回のお題は「刹那」。一瞬の世界を切り取るこの言葉から始まる”言葉の波乗り”は、二回目にして早くも嵐の予感がいたします・・・
しかし海とは予想もつかない表情を見せるものと相場は決まっております。
これはしり込みせずフィールドを広げるチャンスでございます、此の回も前向きにどんどん航海を進めて参りましょう。
■ワードサーフィンマップ
解説
■壱ノ波
“ありがたい象徴としての光”のビックウェーブ
「無限」に含まれる「無」という言葉は、思いがけず光を表す言葉へと我々をいざなってくれました。「無碍光」、この光はどうやら阿弥陀様の智慧や慈悲を光に例えた「十二光」の一つのようでございます。光が差す、ということが大きな意味を持ち、人の力を超えたありがたいものとして讃えられてきた時代の流れを感ぜずにはおられませんでしょう。
いくらでもあかりをたいて、明るく照らし出す術を手にした現代人に対して、そんな姿勢をぐるりと飲み込みひっくり返し、一つのあかりに対する尊敬と情緒を思い起こさせるような大変な大波でございます。出発から間もなくして、かようなビッグウェーブに遭遇することに相成りました。
■弐ノ波 織物の波
輪廻転生をめぐる大渦潮
一瞬の時を表す「刹那」に対して、宇宙の始まりから終わりほどの、長い時間を表す「劫」という言葉が浮かび上がってまいりました。そこから世界の始点と終点の間を流れる悠久の時間を、四つに分けて表す「四劫」が登場いたします。世界の成立・持続・破滅・空虚な時間の流れを経て、再び新たな世界の成立へと繋がっていく無限ループ…。ああ、これ以上深入りすると私もこの輪廻の渦潮から抜け出せなくなってしまいましょう・・・。
荒波の攻略は今日の私の装備では心もとないゆえ、またの機会にいたします。
あら、気になる波の予感が別方向にございます。その雰囲気に吸い寄せられるまま次の航路に移ってまいりましょう。
■参ノ波
時間と光をつなぐ波
「刹那」の時間を表す一面から波乗りは繋がります。一瞬を表す「刹那」から、無限の先にある「永劫」まで我々を運んでまいります。
ただ、ここで出てくるスケールは、捉えられぬほどの瞬刻や、永遠に近い時の流れであり、日常の時間感覚からは逸脱したお話。きっとこの間にも、さらなる時間の表現があるに違いありません。
荒波や渦潮にもまれながら進んだ先の海原に、このたび私、強く興味を惹かれます「時間の波」に遭遇いたしました。これを乗りこなさぬ手はございません。ただ広辞苑の示すところの外側にその深遠はあるようでございます。さてはその波の端をつかむべく、広辞苑の海を越えて行きたく存じます。
■デザインコンセプト抽出のポイント
「刹那(セツナ)」からはじまる時間の単位が「恒刹那(タセツナ)」「臘縛(ローバク)」「牟呼栗多(ムコリッタ)」「一昼夜(イッチューヤ)」と繋がることが分かってまいりました。
これらはそれぞれ、タセツナは120セツナ、ローバクは60タセツナ、ムコリッタは30ローバク、イッチューヤは30ムコリッタとされております。さすれば逆算し、タセツナは1.6秒、ローバクは約1分半、ムコリッタは約50分、イッチューヤは24時間というおおまかな時間の配分が与えられましょう。
ふと、照明の世界に立ち戻ってみれば、これらは今日照明デザインに登場する重要な時間感覚に結びついております。例えばタセツナは、調光器でおこなう自然なシーン入れ替えの時間。ローバクは、光のパフォーマンスやメディアファサードなど、動きのある光の演出時間。ムコリッタは、昼から夜へと移行する変化時間。イッチューヤは、サーカディアンリズムの一周期、といったものでございます。
これらの時間区分はおそらく人々が長らく培ってきた生活感覚の中から見出した、生きた時間の単位。仏教と照明、出発点は違っても“人”というものを中心に据え、とらえた時間の感覚が似通っていたことは、非常に興味深いものがございます。
照明はそもそも人がいかにして時間を過ごすべきかを熟考し、編み出されていくものですから、このように“人”を軸とした考え方が浮かび上がってきたことは、ある意味では当然のことでございます。ただ、今回の波乗りを通して、こういった時間感覚についての考察を行い、人に寄り添った志向を持ち続けることの意味を噛み締める機会を得たことは、移り変る光の表情を語り、力を借りてゆく立場にあって、非常によき経験となりました。 |
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