其の七/江戸の花火「隅田川花火大会」
それは、ほんの数秒のできごとです。
ドンっという音とともに光の筋が上空へ昇り、パッと一斉に花開く。そして今度はサッと一瞬にして消え去り、悲しみにも似た儚さを残していく。
日本の打ち揚げ花火には、そんな刹那的な美が感じられます。
調べれば、慶長18年(1613)中国商人による花火を将軍・徳川家康が見たというのが、日本の花火のはじまりだといいます。それより前に火薬は存在していたはずなのに、一体なぜこの時代にはじまり、庶民にまで親しまれていったのでしょうか。
そして、今に至るまで人々を魅了し続けてきたのは、一体なぜなのでしょうか。美しさも然ることながら、私たちと花火との間に深い関係がある気がしてなりません。
そこで今回は江戸の盛り場・浅草を巡りながら、江戸の花火の真相に迫ってみることになったのです。
まず訪れたのは、江戸の花火の講座が開かれるという、浅草文化観光センター[*1]。
すみだ郷土文化資料館で花火を専門に研究されている、福澤徹三先生がお越し下さりました[*2]。
先生によれば、家康が見物した花火は“立花火”という竹の節を抜いた筒に火薬をつめたものだそう[*3]。一端を点火すると火の粉を吹き出すシンプルな花火で、当時の技術書にある“門学”にイメージは近いといいます [図1]。
図1. 門学 /考坂流花火秘伝書,宝永3年(1706)
図2. 子供遊花火の戯 /慶応4年頃(1686)
続いて先生の解説は、こう続きます。
江戸時代に入り、戦が減って世の中が安定してきた頃、将軍や諸大名たちは「余ってしまった火薬は人を楽しませるものに使おう」と豊かな思考へ変わっていったのだと…。
花火が江戸で定着した大きな理由、それは戦国の世から太平の時代に社会が変化し、為政者の発想も大きく進化したことによるものだったようです。
一方で…と間髪入れず、先生は次なるポイント江戸の町中の話へと突き進みます。
江戸にはじめて花火に関するお触が出されたのは、慶安元年(1648)のこと。「町中での花火は一律禁止!けれど隅田川河口は特別に許可します」というものでした。
禁止令を出すということは、このときすでに花火は流通し、それによる火災が後を絶たなかった為でしょう[図2]。
と、ここで気になるのは“隅田川河口は許可します”という文言。
図3. 東都両国ばし夏景色, 安政6年(1859)
もともと隅田川河口は大名たちの“舟遊びのメッカ”だったといいます。町中での花火を禁止しながらも花火自体を全否定する訳ではなく、火災のリスクの少ない河口にのみ限定的に許可をしたというのです[図3]。
それだけ、江戸の人々にとって花火は不可欠なものであったということでしょうか…?
こうして隅田川には多くの武士や町人が詰めかけ“花火の名所”となっていくのですが、当時の娯楽・歌舞伎や相撲などが一度に楽しめる人数はせいぜい数百人、それに対して天高く打ち揚げられる花火の観客数はその数百倍にもなったのです。しかも、こんなダイナミックなエンターテイメントが、庶民にあっては無料で見られたというのです。
江戸の新たな娯楽として大流行していったのは、想像に難くないことでしょう。
こうした士農工商の垣根を越えて花火を楽しむ雰囲気は、社会の風潮にも影響したのでしょうか。幕府の最高首脳部たちも「花火は先人が残してくれた恩恵。それを享受できる隅田川の花火は続けていこう」と花火に大きな期待を寄せていたのだ、と先生はいいます。
そして来る7月25日、墨田川の花火大会は開かれました。
私は例年になくイソイソとした気分で、花火見物へ出かけていったのです。
浅草の町は、通行困難な大通りと観覧者で埋め尽くされた浅草寺、そして至るところのビル屋上で開かれる花火鑑賞会といった熱狂の様子。ひとたび大きな花火が揚がれば、まわりからはドッと歓声が沸き起こります。
あたりに鳴り響く音とせまりくる迫力を四次元ライブで体感できるところに、打ち揚げ花火の本髄はあるのだなと物想いにふけっているうちに、こんなことに気づきはじめました。
その1)ひとり花火を見つめていると、自分のなかの曇った気持が打ち揚がる花火とともに消え去られていく気がしてくる。
その2)大切な家族や恋人、友人たちと一緒に見ている人にとって、花火の共有体験がお互いのつながりを強く感じさせてくれる。
歴史や場所は違えど、今も昔も多くの人が花火を見に訪れるのは、マス・エンターテイメントとしての純粋な楽しさに加え、花火による心の浄化作用があったり、花火を通して人との絆が強くなっていたからではないだろうか…?
煙で花火が隠れようともそんなことを感じながら、2015年夏の夜の光の祭典をしみじみと楽しんだのでした。
*1 平成27年度台東区文化財講座「隅田川の川開きと花火」
*2 すみだ郷土文化資料館
〒131-0033 墨田区向島2-3-5 TEL : 03-5619-7034
*3 当時の花火は「和火」といって、黒色火薬(硫黄、硝石、木炭)を使った赤橙色のみの花火。
江戸の人々は火薬の配合を工夫して、微妙な色合いの変化を楽しんでいたという
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